generationyのブログ

コンサルで見習いをしています

新卒6年間の振り返りと次の3年間に向けて

以前、3年間の振り返りをして気づけばもう3年が経ちました。

社会人になり、転職などしないと区切りもなく毎年年次を更新するので、一区切りする意味で振り返りをしようと思います。

 

この3年間も変わらずコンサルとして仕事を続けました。

その中で変わった部分と変わっていない部分があるので、変わった部分から書こうと思います。

 

変わった部分として、プロジェクトの中で見える景色が大きく変わりました。

3年前はプロジェクトメンバーとしてプロジェクトを前に進めることだけを考えていましたが、この3年間はプロジェクトの大半をプロジェクトリーダーとして過ごしたことで、プロジェクト全体の視点で物事を考える機会が増えたと思います。

特に顧客との関係構築はプロジェクトリーダーとしての原体験となる失敗も含め、経験を積む中で、自分の中での型のようなものを作った期間でした。

その甲斐もあり、最近は顧客との関係深化や顧客の成功・プロジェクトの拡大を考える機会が以前より増えたと思います。

一方、プロジェクトが進む過程でプロジェクトメンバーとのコミュニケーションには難しさ・歪みを感じる場面も増えてきました。

顧客との関係構築がプロジェクトの成否を左右するため、顧客の思考に自身の考えを同期させるあまり、メンバーから「顧客の言いなり」と言われる場面もありました。

顧客と一体にならなければプロジェクトは前に進まない、と強く信じる一方で、メンバーがそれに対して疑問を感じている状態に対処しなければどこかでチームが壊れてしまう危機感が常に隣り合わせにあります。

特にプロジェクトが一定成功するとその小さな成功を守りに行き、保守的な運営をする性格が自身にあるため、更にアクセルを踏もうとする意見に対しては、否定的になりがりなことに気づきました。

心理的に抵抗感があったものの、結果的にアクセルを踏んでよかった、と感じる経験がここ最近続き、直感に反する意見を受け止められるようになりたい、と強く思います。

 

次に変わった部分として、専門性と言われるスペシャリティの部分があります。

以前の3年間はスペシャリティがなく、自由に色々なプロジェクトに入っていたのですが、最近はイノベーションや新規事業の領域に軸足を置くことが増えました。

軸足を置くことが増えたと言うと聞こえはいいのですが、良くも悪くもこの領域の仕事の引き合いが集中し、他の仕事をする隙間がなくなった形です。

コンサルティングは人月ビジネスなので、常にプロジェクトで身体が埋まっている状態はファームとしては理想なのですが、最近同じテーマで身体が埋まりすぎて、新しいテーマに挑戦する遊びがなくなっていることに漠然とした不安を感じています。

最近読んだ本に「スペシャリティがキャリアを作る」という言葉があり、この言葉が実感を伴うようになったことに嬉しさを感じつつ、一方で「スペシャリティがキャリアを狭める」ことにはしたくないな、と不安を感じることもあります。

この点、コンサルに限らず、新卒で比較的将来のキャリアを広げることに重きを置いた人が、入社して一定期間経つ中でどう感じるのか、同年代の率直な感想に興味があります。

スペシャリティが自身のやりたかったことならよいじゃないか、という気持ちももちろんあるのですが、経営コンサルティングの広い領域の中で当該領域のカバー範囲は決して広いとはいえず、その中で今後長く仕事をしていくことに不安がないといえば嘘になる、という感覚です。(そもそも経営コンサルティングをずっと続けていくんだっけ?という観点もありますが、それはまた別の機会に整理したいと思います…)

ちなみに経営コンサルティングには大きく戦略と業務の区分があるのですが、イノベーションや新規事業の領域は両領域をまたぐため、戦略と業務の両方の領域の人に異質に見られる感覚もあります。(見方を変えれば両方を繋げられる貴重な領域でもあり、それがまた面白くもあります)

最近、ChatGPTが大きなトレンドになっていますが、ChatGPTに「イノベーションは戦略コンサルの仕事だと思う?」と聞いたところ、「一般的な戦略コンサルの守備範囲を超えるが、デザイナーやエンジニアなど多様な専門家とのコラボレーションが必要な新らしい領域」(要約)と回答が返ってきて、何となく自分が目指している世界と大きく違わなそうなことに安心感を覚えました。(ChatGPTに聞いて安心してどうするんだという話ですが)

 

その点、3年前の振り返り投稿で、コンサル1.0(戦略)、2.0(業務)に続く、3.0(何か)を目指したいと書いたのですが、その方向性には変わりはないです。

加えて、3.0の構成要素は「多様な領域を横断するコラボレーション」であることとここ数年で特に着目されている「社会課題解決」(経済価値と社会価値の両立)に資する領域であることが要件だと個人的には言語化しています。

 

ここまで3年前と変わったところを書いてきたのですが、変わっていないところは「広く見るとコンサルだが、従来のコンサルらしくない」領域を目指している点にあると思います。

今後しばらくイノベーションや新規事業に軸足を置くことに大きく変わりはないと思いますが、既存のプロジェクトのカバー領域だけではどうしても視野が狭くなるため、「両利き経営」のように経営改革全般のテーマに自身のスペシャリティを引き上げられるかが大きな試金石になると考えています。

 

加えて、改めて試金石に感じたのは、イノベーションの仕事をする上で、「海外」は外せないな、という点です。

最近シリコンバレーに出張する機会に恵まれ、月並みですが、イノベーションの最前線・一次情報に触れる経験は得難いものがありました。例えば、Uberを呼び、テスラ車に乗り込み、ボタン一つで自動運転に切り替わる景色は日本との距離を感じさせるに十分な体験でした。

そのため英語の修練は何度も試みては本気になる前に雲散霧消するレベルだったのですが、英語力で損しているな、と素直に感じたため、まずはスタンフォード大学(冒頭の写真です)の書店で買い込んだデザイン思考の本の山から読み始めています。

 

最後に少しメタ的な話になるのですが、仕事とは何だろうと最近たまに考えることがあります。その中で「顧客が価値を認め、対価を払うもの」は何でも仕事と捉えるようにしているのですが、目の前の顧客が価値を認めるものを探索する点はコンサルとして鍛えられた一方で、自身が価値があると信じるものを買ってもらえる顧客を探す、という観点は弱いな、と最近感じています。

後者の価値を認める顧客を探すは「プロダクトアウト」と言われ、顧客が求めていない技術や機能が起点のモノづくりと批判されることが多くあるのですが、逆に自身が価値があると強く信じられるものを売れる「プロダクトアウト」は真に商品に自信がないと売れないな、と情景の念を抱くこともあります。

コンサルビジネスはその性質上、プロダクトアウトにならない(はず)なのですが、もっとプロダクトアウトになってもよいのではないか(逆に言うとプロダクトアウトでも売れるくらいの強い商品・サービスが作れたら強い)と思います。

最近チームの中で、よく「利己と利他」という言葉を好んで使います。

個々のメンバーの利己的なモチベーションを顧客や社会のためとなる利他的な世界へとつなぐストーリーが描けると「利己と利他」の歯車がまわり、信じられないような推進力がプロジェクトに生まれる経験(不可能と言われていたゴールが実現してしまう経験)をしたことがあり、「利己と利他」の両立がチームの大きな強みになると感じています。

 

「利己と利他」は「プロダクトアウト」と同様、ともすると批判の対象になる(仕事で利己などふさわしくないと考える人も多くいる)点で難しさがあるのですが、何となく仕事に埋もれて生きるより、子どもが好奇心のままに物事を追いかけるような原動力を大人も取り入れられるともっと社会全体が元気になるんじゃないか、と利他っぽく表現しっつ、利己的に思います。(結局、利他などない。利他だと思っている自分も利己だ、と言い切った同僚もいて、ここまで来ると哲学の世界です)

 

まとめにならないまとめをすると、この3年間で仕事の中で一番変わった点として、自身が主語になることが減り、チームや顧客が主語になることが増えたことが一番の変化だったと思います。

一方、それは自己犠牲の高貴な思想に基づいているのではなく、「そのほうが面白いから」「そのほうが大きな原動力を生んで、信じられない結果につながることがあるから」という利己的な視点も含めた中での主語の転換だと理解しています。

次の3年間に向けては変わらず「コンサル3.0」を追求しつつ、「利己と利他の両立」を探索し、「プロダクトアウト」に挑戦し、(自身以上に)チームの成長が大きな成果につながることにこれまで以上に心を砕く、そんな3年間にしたいと思います。

 

誰向けに書いているのかというと何より自分向けに書いているのですが、何となくこの場で考えを整理しておくことで、次に繋げられたらと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ハンドボールという夢

昔、ハンドボールというスポーツをしていた。ゴールに向かって、跳んでシュートを打つあのスポーツだ。宮崎大輔という選手が活躍したこともあり、ここ最近で知名度が少し上がった気がする。だが、いずれにしても野球やサッカーに比べれば、マイナースポーツである。

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東京オリンピック公式サイトより

 

ハンドボールから離れて、もう10年近く経つ。それでもこの話を書くのはいまだにハンドボールが僕にとって身近な存在だからである。

 

何年前からだろうか。おそらく大学生の半ばくらいから、ハンドボールをする夢をよく見る。それも月1回くらい、ほぼ必ず夢を見る。内容は中学生の時、高校生の時、それぞれのバージョンがある。中学生と高校生でポジションを変えたのと(中学はキーパー、高校は右サイド、というポジションだった。)中高一貫だったものの、チームメンバーの半数くらいが入れ替わったことから、夢の中でもどちらの景色か、直感的にわかる。漠然とプレーする夢、というよりリアルに、時には目が覚めて全身汗をかいているくらいに本格的にプレーする夢である。ある程度パターンもあり、多いのは、久々にハンドボールをして、身体が思うように動かず、全力のシュートも止められてしまう。そんなどちらかと言えば少しネガティブな夢である。

 

10年近く経ったいまでもハンドボールの夢を見るのはなぜだろうか。

 

一つは運動不足が理由かもしれない。もともと球技が好きで、運動自体もわりと好きだが、もうしばらく身体を動かす機会が減ってしまっている。そのため身体が本能的に運動を求めているのかもしれない。ただもう一つ、大きい理由は、ハンドボールというスポーツへのうまく説明しづらい複雑な感情が深層心理にあるからかもしれない。

(先に言うとこの文章には論理的一貫性などない。)

 

スポーツ歴を話す時、「中高でハンドボールをしていました。」と言う。嘘では無い。だが、こう言うと少し引け目がある。当時、高校3年生の5月が現役引退の時期だったが、自分自身は、高校2年生の7月、同級生より10ヶ月早く、(自主)引退をしている。

理由は受験。都内の有名進学校では部活は高校2年生の夏で引退するところも多いと聞き、少し早めに受験の準備に入りたい、という理由だった。これはこれで本音だったが、別の側面もある。それは部活への熱意があまり無かったのとレギュラー定着の可能性を含めその先の将来を見切ることに合理性を感じたこと。もともと部活に熱心では無い、むしろ隙を見て休むタイプだったから別に今更、熱意が無いことは責められないだろうという気持ちはあった。レギュラーについては試合に出ることもあり、確率もゼロではなかっただろうが、自分より上手い選手は何人もいた。背番号をもらえるだけ、試合で使ってもらえるだけ、ありがたい立場だった。

 

部活を辞めることを顧問に報告に行った際、2,3言しか交わさなかった。そのうちの一言が、「もう少しでレギュラーだったかもね。残念」で、辞め際のせめての労いと勝手に受け取ったのだが、ほんの少し棘が残った。こうして中学1年生からの部活はあっさりと終わった。

それ以降、ハンドボールをしたことは一度も無い。唯一、大学に入学した際、高校の同級生が入っているハンドボール部の新歓に行ったことが、ハンドボールとの接点だった。(飲みに行っただけで、プレーはしていない。)

 

ところでなぜ中学校でハンドボール部に入ったのだろうか。

 

当時、一番好きなスポーツは野球だった。野球はいまでも一番好きなスポーツだが、当時から好きだった。当然、野球部に興味を持つのだが、ほとんどが少年野球経験者。1年生は球拾いとランニングばかりで、入部するには心理的ハードルが高かった。ちなみに小学生の時は、サッカーと水泳をそれぞれ3年ほどやっていた。サッカーは才能が無いことに小学生の時点で気づいていたので、まず選択肢から外れた。水泳は比較的得意だったが、進学先の中高にプールは無かった。

初心者が多く、スポーツ自体にも興味を持ったのはテニスだった。テニス経験者がいまだに集まってテニスをしているのを見ると羨ましく思うことがあり、テニスはよかったかもしれない。ただテニス部も例によって1年生は球拾いとランニング。いまも昔も"下積み"という概念が嫌いで、選択肢からは外れた。

 

どの部活に入ろうか考えあぐねていると小学生で塾が一緒だった同級生からハンドボール部に誘われた。見たことも聞いたことも無いスポーツだが、練習メニューに分け隔てなく、1年生から実戦形式の練習にも参加しているようだった。(いま思えば練習メニューを分けたほうが効率がいい気もするが、単にコートが狭かったのと顧問が別々に管理する手間を省いただけだったと思う)。

同じクラスの友人も多く、気づけば入部していた。母親からはハンドボールなんて初耳だと不思議がられた。それから高校まで、意外と長く続いたなというのが率直な感想である。

 

ハンドボールは何だかんだ楽しかった。ボールを投げるのが好きで、よく遠投をしていた。平日はハンドボールを投げ、休日は家の近所の公園で野球ボールを投げていた。そのおかげで肩力だけは少し付いた。振り返って、いまハンドボールに最も感謝しているものは何かと聞かれれば、多少の体力が付いたことと身長が伸びたことである。(幸い家族や親戚の中で最も身長が高い。)

 

中学の時は公式戦でよく負けた。よく負けたというより勝った覚えが無い。いつだったかは忘れたが、キーパーとして出場した試合も30点以上入れられて負けた。幸か不幸か顧問の雷はキーパーではなく、フィールドプレーヤーに落ちていたので、ひょうひょうとしていた。

試合には負けてもシュートを止めた時だけはうれしかった。シュートを決められるのはディフェンスの責任もあるが、シュートを止めればキーパーの手柄である。薄々、美味しいポジションだと思っていた。最近、覚えた言葉で言えば"役得"である。

 

中学の部活を引退してしばらく、他校の高校生を相手に試合をした時は、しばしば勝てた。公立校だと高校からハンドボールを始める人が多かったので、素人集団相手には有利だった。一度だけ、ある県立高校の選手に「相手のキーパーはメガネだぞ、割ったれ割ったれ」と試合前に煽られたのを覚えている。世の中、恐ろしい高校もあるのだと感心してしまった。結果、相手が素人だったので、その試合は勝てた。

 

高校では「メガネのままキーパーをやるのは無理だから、コンタクトに変えたら?」と顧問に言われて、「じゃあポジションを変えます」と言ってポジションを変えた。コンタクトを目に入れるのがとにかく嫌だったのと守ってばかりではなく、自分も相手ゴールに向かって攻めたいな、という気持ちの両方だった。

試合に出る機会こそ多くは無かったが、キーパーをやるよりフィールドに出るほうが楽しく、よい意思決定をしたと自分を褒めていた。

 

高校に上がると受験に関心が移ったこともあり、部活の思い出は多くは無い。前述のとおり、高校2年生で(自主)引退するのだが、その意思決定自体も間違っていたとは思わない。(結果的に現役では不合格、浪人で何とか合格したのだが、そのまま部活を続けて浪人したからといって、受かったかは分からない。)

 

浪人生活を経て大学に入り、気づけば大学を卒業し、社会人生活も4年目になる。もともと寝ていると夢をよく見るタイプで、夢の大半は仕事であったり直近の出来事から派生した内容である。その中で月に1回くらい、なぜかハンドボールの夢を見る。受験や大学生活の夢を見るより、頻度は多い。ちなみに大学の頃に最も時間を割いていたサークルの夢はほぼ見ない。

 

夢は科学的には記憶の整理という側面があるため、基本的には脳内の情報整理以上の意味は無い。本を読んだり人と話したり、情報収集・整理をするのが人一倍好きなこともあり、その分、寝ている間も頭が情報処理に追われているのだろう。

ただいまだにハンドボールの夢を見ることに対し、何かしらの意味を見出そうとしてしまうのも事実である。

他にも多くの出来事・経験の蓄積がある中で「なぜハンドボールの夢を見るのだろう」と考えることがある。

 

最近、在宅勤務に切り替わったこともあり、自宅近くで運動することが多い。もっぱら野球ボールでの壁打ち、キャッチボール、時々ランニングである。ただ最近、密かにスポーツショップハンドボールの公式球を買った。まだ一度も投げてなく、棚の上にそっと飾ってあるが、いつの日かもう一度、ボールを投げてみたい。

 

短くまとめるつもりが、気づけば、長く話していた。

感情を言葉で表現するのはあまり得意では無かったが、この1年間、定期的にコーチングを受けたこともあり、感情を言葉にすることへの抵抗感は以前より薄れた。

 

基本的に人に何でも話してしまうタイプだが、この話は今まであまり表に出してこなかった。隠していたわけでは無いが、積極的に話す気にもならなかった。今更出す話でも無い、というのも本音である。

ただ時間があるうちに今まで抱えていたことを言葉に残しておこうと思った。言葉にすれば何かが変わるかもしれない。

 

半年以上前、ある上司が話していたことが印象に残っている。

彼は高校時代、野球部だったが、1度も打席に立つことなく、現役生活を終えたそうだ。打席に立てるよう毎日練習したが、自分よりはるかに上手い、立教大学野球部でレギュラーを獲るようなチームメイトを前に努力しても叶わなかったそうだ。

そんな彼は仕事をしてから、「野球部と違って、この仕事は若手でも失敗しても、毎回打席に立たせてくれて、なんて恵まれてるんだ」と思ったそうだ。

 

日々仕事に追われて苦しい時期だったが、この話を聞いて、少し仕事の見方が変わった。

新卒3年間の振り返りと次の3年間に向けて

 

この3年間を振り返ると「よくも悪くもコンサルになったなあ」と思います。

 

個人の話に入る前に少しコンサルの仕事の話をします。

コンサルの仕事は、説明しづらいのですが、「顧客課題を解決する請負ビジネス」というと個人的にはしっくりきます。顧客課題がまずあって、それを要素分解し、要素ごとに解決策を提案していく、時に一緒に現場に入って解決策の実行まで支援する仕事です。“請負”という言い方をしたのは、程度の差こそあれ、発注者である顧客の意向を大いに受けるというニュアンスを込めたかったからです。コンサルは第三者としての価値提供を期待される一方、オーナーの意向に沿うことも求められます。この一見、アンビバレントにも見える役割を担わされるのがコンサルの仕事です。

 

そうした中、コンサルの仕事の成否は、顧客の期待値にかかっています。単純化して言えば、顧客の期待を上回っていれば、“成功”、下回っていれば“失敗”です。顧客の期待は概して主観に基づくもので、もともと明示的に線引きがあることは少ないです。そのため提案段階からどこで線引きさせるかをコントロールすることが、コンサルの腕の見せ所と言えます。これを期待値コントロールと言いますが、期待値コントロールが下手だとプロジェクトが炎上します。その意味でコンサルとして一番気を遣っているのは、顧客(正確に言うとその中でもプロジェクトの予算を出しているオーナー)の期待値を正確に読み取り、それを満たすアウトプットを出し続ける、この一点です。

 

コンサルの仕事の話に入ってしまいましたが、冒頭に書いた「よくも悪くもコンサルになったなあ」という話は自分の思考回路・行動原理が、ここで書いたコンサルビジネスの影響を強く受けているためです。対社内でも対顧客でも無意識のうちに相手の期待値を読み取る点に力が入っています。相手の期待値が自分の出せるアウトプットより高いと見れば、期待値を下げる方向にまず持っていきます。期待値を下げておけば、アウトプットの質がそれを上回る確率が上がるため、「ありがとう、いいね!」と満足されることも増えます。期待値を下げられない場合は、書籍であったり社内の専門家であったり他人の知恵を全力で借りにいきます。特に若手は、対社内で期待値を上回り続けていれば、“筋のいい”仕事がまわってくるので、ここは職業人としても生命線と言えます。(あえて“筋のいい”という言い方をしましたが、コンサルの仕事の中には解けない課題を解けない方法で解かねばならない“筋の悪い”仕事も多々あります。こうした仕事は概して顧客の期待を満たせず、心身ともに疲弊する“炎上プロジェクト”に発展しやすいため、健康で文化的な生活を送るには避けたいところです。)

 

実際に大学を卒業し、この3年間でスキル/マインド両面で何が一番変わったかといえば、自分を取り巻く利害関係者が、自分に何を期待しているのかを見極める“観察眼”が第一、期待値をコントロールする“コミュニケーション力”が第二、期待値を満たすアウトプットを作り込むための力(“人に頼りまくる力”を含む)が第三です。第三の部分は仮説思考、分析力、ロジカルシンキングetc. コンサルとして一般的に想像される力に最も近いのですが、第一、第二があっての第三だと捉えています。

 

学生の時、いまの会社の最終面接で「コンサルタントとして大成するのに最も重要な資質は何ですか?」と一つだけ質問した際、「組織内での立ち居振る舞いの巧拙だよ」と言われて、当時は何を言っているか全く分からず、もっといえば「組織が嫌いだから個人で働きやすいコンサルを志望しているのに、組織内での立ち居振る舞いとは何だ」とがっかりしました。ただ今であれば、この言葉の重みが身にしみて分かります。それが分かるようになったという点でも「コンサルになったなあ」と思います。最近、ある中途入社の先輩に「お客さんの組織が縦割りで、部門間の意思疎通が図れなくて、イライラするんだよね」と話しかけられ、「組織内の横のコミュニケーションが機能不全だからこそ、コンサルとして、付加価値を出しやすいじゃないですか」と答えたのですが、最終面接で言われたことを自分自身がいつに間にか価値規範として内在させており、気持ち悪いです。「コンサルになったなあ」と。

 

ここの感覚は多分に個人差があるのですが、僕がこの価値規範を明確に内在化させたのは、2年目に外部機関に1年間常駐した経験が大きいです。1年目は学生の時に描いていたようなやりたい仕事(インダストリー4.0のような当時最先端の仕事や学生の頃からの憧れでもあった海外での国際会議への参加など)をやらせてもらいました。対照的に外部機関への常駐が決まった2年目は、(当時)やりたくない仕事を外部に出てまで1年間やることへの反感、反発、被害者意識が非常に強く、仕事に嫌気が差していました。ただそこで実際に現場に行って、物事を一緒に動かす経験が、コンサルとして最も大切なことを教えてくれました。2年目に送り出される際に上司から「お前らは賢いかもしれない、だけどつべこべ言うな、とにかくこの一年で物事を動かす難しさを学んでこい」と言われましたが、その通りでした。また結果論ではありますが、ここでの一年通した仕事は楽しかったので、やはり喰わず嫌いはいけないな、というのと、ここでの頑張りが3年目で多くの恵まれた機会を与えられる布石になったので、腐らなくてよかったな、という収穫もありました。1年目は仕事をただ与えられる立場でしたが、2年目は仕事は与えられるのではなく、創らなければいけない、与えられるのは機会であり、機会を生かすも殺すも自分次第だと恥ずかしながら学びました。

 

このように振り返ると次の3年間もコンサルを続けるとすれば、コンサルとしての思考回路・行動原理はますます深く内在化されると思います。“気持ち悪さ”はなくなり、それが快感ですらある世界が待っているのかもしれません。「コンサルは長く続けるとやめられない」とよく言われますが、ある種、中毒性のある仕事なのかもしれません。

 

コンサルは奥が深い仕事なので、この3年間で学んだ話はおそらく奥深い世界の入り口にようやく立てたくらいのレベルだと思います。そのため次の3年間は苦労しつつ、この感覚に磨きをかけることに時間を割く必要があります。ただ一方で、冒頭にあえて書いたように“請負ビジネス”としてのコンサルが、将来長きにわたり高い付加価値を提供し、高い報酬を得られ続けるのかというと疑問もあります。コンサルの“第三者”としての価値は将来も残ると思いますが、コンサル業界に人材が供給され続ける中で、余りあるだけの取り分があるのか、というと疑問です。

 

3年目の仕事の話を少しだけすると、3年目は海外の全く異なる領域におけるプロフェッショナルチームと協働して、プロジェクトを動かす機会に恵まれました。そこから派生して、コンサルの将来像について考え、それを実現するための外部パートナーを探索する活動(外部パートナーと一緒に仕事をしたり、資本業務提携など踏み込んだ議論をしたりする)にも関わりました。こうした仕事を通じて、コンサルという業界自体がそろそろ新しい領域に踏み出す、踏み出さなければいけないのではないか、そこで求められる人材は従来の“請負ビジネス”のコンサルとは大きく違うのではないか、と大真面目に考えています。

 

ここでいう新しい領域とは、ざっくり言うと戦略コンサルが元マッキンゼー大前研一氏などパイオニアが卓越した個の力で切り拓いた“コンサル1.0”、業務コンサルが今のアクセンチュアなどが組織戦で形にした“コンサル2.0”、その次の世界が“コンサル3.0”で、ここでは今までとは全く異なるものが求められるかもしれない、という話です。コンサル1.0〜2.0の世界は一言で言えば「顧客課題に対し、第三者視点で」価値提供する仕事でしたが、コンサル3.0の世界では顧客課題が起点ではなく、社会課題や消費者(エンドユーザー)の課題が起点になるかもしれません。また第三者視点ではなく“同じ舟に乗る”一人称の視点(利害を共にした状態)が逆に求められるかもしれません。課題解決の方法も従来の論理に傾倒したアプローチだけではなく、情や感性を大切にしたアプローチも取り入れることで、価値提供の幅を広げることが求められるかもしれません。それを果たしてコンサルと呼ぶのか、コンサル1.0、2.0の世界の人からは、「あれはコンサルではない」と言われるかもしれません。実際、コンサル1.0の世界の人には「戦略コンサルこそがコンサルである」という誇りを持っている人も少なからずいます。(戦略コンサルの仕事も業務コンサルの仕事も経験した身として、もはや戦略と業務を区分することの意味は薄れつつあると思います)。コンサル3.0の世界もきっと挑戦的であればあるほど「あれはコンサルではない」と言われるでしょう。

 

ちなみにコンサル3.0の話をした際に、“社会課題”というありきたりな言葉を使ったのは、学生の時に書いた自己分析のメモにこのキーワードがあったためです。大学では社会科学を広く学んだこともあり、社会課題を洞察し、その解決策を提供することが仕事の役割だと位置づけたのは、いま思えば自然だったと思います。一方、繰り返し書いているように、いまは“顧客課題”を起点に仕事をしています。「顧客課題を解決することで、社会課題を解決する」と言えばそれっぽく聞こえますが、僕の理解ではこの二つは似て非なるものです。顧客課題を解決する、ましてコンサルとして顧客の期待値を満たしたからと言って、社会課題の解決につながるかは分かりません。コンサルの人が業務外でNPOなどに関わるプロボノ活動も、こうした顧客課題と社会課題とのギャップから来るものかな、と思っています「学生の頃の視点に立ち返って、やっぱり社会課題を解決したい」と言ってコンサルを飛び出していくのも手であり、実際にそうした人も間近で見ています。ただ僕にはそれだけの“熱意”も“胆力”もありません。僕がやれることといえば、そうした人に、ささやかなエールを送るくらいです。

 

4年目以降、次の3年間に向けて何をするのかという視点でいうと、僕は僕のやり方で「コンサルになったなあ」という感覚を深めつつ、ささやかな抵抗、アンチテーゼとして、今のコンサルにはない、けどいずれコンサルに必要になるものを追い求めていくのだと思います。組織人である以上、自分で全てを選択する余地はないのですが、結果を出し、声を上げ続けていれば、新たな機会に恵まれる点は2年目の経験の学びであり、いまの会社に残る上での心の支えです。

 

ちょうどいま、スタンフォード大学オライリー教授の『両利きの経営』という本を読んでいます。この本は「成功した企業でも、なぜ長きにわたり生き残れないのか、生き残るにはどうすればいいのか?」という問いに対し、「企業が長きにわたり生き残るには、既存事業の“深化”と新規事業の“探索”の両方が必要で、これを実現する“両効きの経営”には強いリーダーシップが求められる。」と結論を出しています。最近、企業変革の研究活動をしており(いずれ対外的に公表します)、その文脈で読んでいたのですが、僕自身が次の3年間を考える際にも“両効き”はキーワードだなと思いました。既存のコンサルとしての“深化”といまのコンサルの形にとらわれない(もはやコンサルではない)コンサル像の“探索”。このバランスの取れた活動の先に次の3年間はあると思います。

 

「コンサルになったなあ、コンサルっぽくないけど」くらいの感覚を期待して。