generationyのブログ

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ハンドボールという夢

昔、ハンドボールというスポーツをしていた。ゴールに向かって、跳んでシュートを打つあのスポーツだ。宮崎大輔という選手が活躍したこともあり、ここ最近で知名度が少し上がった気がする。だが、いずれにしても野球やサッカーに比べれば、マイナースポーツである。

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東京オリンピック公式サイトより

 

ハンドボールから離れて、もう10年近く経つ。それでもこの話を書くのはいまだにハンドボールが僕にとって身近な存在だからである。

 

何年前からだろうか。おそらく大学生の半ばくらいから、ハンドボールをする夢をよく見る。それも月1回くらい、ほぼ必ず夢を見る。内容は中学生の時、高校生の時、それぞれのバージョンがある。中学生と高校生でポジションを変えたのと(中学はキーパー、高校は右サイド、というポジションだった。)中高一貫だったものの、チームメンバーの半数くらいが入れ替わったことから、夢の中でもどちらの景色か、直感的にわかる。漠然とプレーする夢、というよりリアルに、時には目が覚めて全身汗をかいているくらいに本格的にプレーする夢である。ある程度パターンもあり、多いのは、久々にハンドボールをして、身体が思うように動かず、全力のシュートも止められてしまう。そんなどちらかと言えば少しネガティブな夢である。

 

10年近く経ったいまでもハンドボールの夢を見るのはなぜだろうか。

 

一つは運動不足が理由かもしれない。もともと球技が好きで、運動自体もわりと好きだが、もうしばらく身体を動かす機会が減ってしまっている。そのため身体が本能的に運動を求めているのかもしれない。ただもう一つ、大きい理由は、ハンドボールというスポーツへのうまく説明しづらい複雑な感情が深層心理にあるからかもしれない。

(先に言うとこの文章には論理的一貫性などない。)

 

スポーツ歴を話す時、「中高でハンドボールをしていました。」と言う。嘘では無い。だが、こう言うと少し引け目がある。当時、高校3年生の5月が現役引退の時期だったが、自分自身は、高校2年生の7月、同級生より10ヶ月早く、(自主)引退をしている。

理由は受験。都内の有名進学校では部活は高校2年生の夏で引退するところも多いと聞き、少し早めに受験の準備に入りたい、という理由だった。これはこれで本音だったが、別の側面もある。それは部活への熱意があまり無かったのとレギュラー定着の可能性を含めその先の将来を見切ることに合理性を感じたこと。もともと部活に熱心では無い、むしろ隙を見て休むタイプだったから別に今更、熱意が無いことは責められないだろうという気持ちはあった。レギュラーについては試合に出ることもあり、確率もゼロではなかっただろうが、自分より上手い選手は何人もいた。背番号をもらえるだけ、試合で使ってもらえるだけ、ありがたい立場だった。

 

部活を辞めることを顧問に報告に行った際、2,3言しか交わさなかった。そのうちの一言が、「もう少しでレギュラーだったかもね。残念」で、辞め際のせめての労いと勝手に受け取ったのだが、ほんの少し棘が残った。こうして中学1年生からの部活はあっさりと終わった。

それ以降、ハンドボールをしたことは一度も無い。唯一、大学に入学した際、高校の同級生が入っているハンドボール部の新歓に行ったことが、ハンドボールとの接点だった。(飲みに行っただけで、プレーはしていない。)

 

ところでなぜ中学校でハンドボール部に入ったのだろうか。

 

当時、一番好きなスポーツは野球だった。野球はいまでも一番好きなスポーツだが、当時から好きだった。当然、野球部に興味を持つのだが、ほとんどが少年野球経験者。1年生は球拾いとランニングばかりで、入部するには心理的ハードルが高かった。ちなみに小学生の時は、サッカーと水泳をそれぞれ3年ほどやっていた。サッカーは才能が無いことに小学生の時点で気づいていたので、まず選択肢から外れた。水泳は比較的得意だったが、進学先の中高にプールは無かった。

初心者が多く、スポーツ自体にも興味を持ったのはテニスだった。テニス経験者がいまだに集まってテニスをしているのを見ると羨ましく思うことがあり、テニスはよかったかもしれない。ただテニス部も例によって1年生は球拾いとランニング。いまも昔も"下積み"という概念が嫌いで、選択肢からは外れた。

 

どの部活に入ろうか考えあぐねていると小学生で塾が一緒だった同級生からハンドボール部に誘われた。見たことも聞いたことも無いスポーツだが、練習メニューに分け隔てなく、1年生から実戦形式の練習にも参加しているようだった。(いま思えば練習メニューを分けたほうが効率がいい気もするが、単にコートが狭かったのと顧問が別々に管理する手間を省いただけだったと思う)。

同じクラスの友人も多く、気づけば入部していた。母親からはハンドボールなんて初耳だと不思議がられた。それから高校まで、意外と長く続いたなというのが率直な感想である。

 

ハンドボールは何だかんだ楽しかった。ボールを投げるのが好きで、よく遠投をしていた。平日はハンドボールを投げ、休日は家の近所の公園で野球ボールを投げていた。そのおかげで肩力だけは少し付いた。振り返って、いまハンドボールに最も感謝しているものは何かと聞かれれば、多少の体力が付いたことと身長が伸びたことである。(幸い家族や親戚の中で最も身長が高い。)

 

中学の時は公式戦でよく負けた。よく負けたというより勝った覚えが無い。いつだったかは忘れたが、キーパーとして出場した試合も30点以上入れられて負けた。幸か不幸か顧問の雷はキーパーではなく、フィールドプレーヤーに落ちていたので、ひょうひょうとしていた。

試合には負けてもシュートを止めた時だけはうれしかった。シュートを決められるのはディフェンスの責任もあるが、シュートを止めればキーパーの手柄である。薄々、美味しいポジションだと思っていた。最近、覚えた言葉で言えば"役得"である。

 

中学の部活を引退してしばらく、他校の高校生を相手に試合をした時は、しばしば勝てた。公立校だと高校からハンドボールを始める人が多かったので、素人集団相手には有利だった。一度だけ、ある県立高校の選手に「相手のキーパーはメガネだぞ、割ったれ割ったれ」と試合前に煽られたのを覚えている。世の中、恐ろしい高校もあるのだと感心してしまった。結果、相手が素人だったので、その試合は勝てた。

 

高校では「メガネのままキーパーをやるのは無理だから、コンタクトに変えたら?」と顧問に言われて、「じゃあポジションを変えます」と言ってポジションを変えた。コンタクトを目に入れるのがとにかく嫌だったのと守ってばかりではなく、自分も相手ゴールに向かって攻めたいな、という気持ちの両方だった。

試合に出る機会こそ多くは無かったが、キーパーをやるよりフィールドに出るほうが楽しく、よい意思決定をしたと自分を褒めていた。

 

高校に上がると受験に関心が移ったこともあり、部活の思い出は多くは無い。前述のとおり、高校2年生で(自主)引退するのだが、その意思決定自体も間違っていたとは思わない。(結果的に現役では不合格、浪人で何とか合格したのだが、そのまま部活を続けて浪人したからといって、受かったかは分からない。)

 

浪人生活を経て大学に入り、気づけば大学を卒業し、社会人生活も4年目になる。もともと寝ていると夢をよく見るタイプで、夢の大半は仕事であったり直近の出来事から派生した内容である。その中で月に1回くらい、なぜかハンドボールの夢を見る。受験や大学生活の夢を見るより、頻度は多い。ちなみに大学の頃に最も時間を割いていたサークルの夢はほぼ見ない。

 

夢は科学的には記憶の整理という側面があるため、基本的には脳内の情報整理以上の意味は無い。本を読んだり人と話したり、情報収集・整理をするのが人一倍好きなこともあり、その分、寝ている間も頭が情報処理に追われているのだろう。

ただいまだにハンドボールの夢を見ることに対し、何かしらの意味を見出そうとしてしまうのも事実である。

他にも多くの出来事・経験の蓄積がある中で「なぜハンドボールの夢を見るのだろう」と考えることがある。

 

最近、在宅勤務に切り替わったこともあり、自宅近くで運動することが多い。もっぱら野球ボールでの壁打ち、キャッチボール、時々ランニングである。ただ最近、密かにスポーツショップハンドボールの公式球を買った。まだ一度も投げてなく、棚の上にそっと飾ってあるが、いつの日かもう一度、ボールを投げてみたい。

 

短くまとめるつもりが、気づけば、長く話していた。

感情を言葉で表現するのはあまり得意では無かったが、この1年間、定期的にコーチングを受けたこともあり、感情を言葉にすることへの抵抗感は以前より薄れた。

 

基本的に人に何でも話してしまうタイプだが、この話は今まであまり表に出してこなかった。隠していたわけでは無いが、積極的に話す気にもならなかった。今更出す話でも無い、というのも本音である。

ただ時間があるうちに今まで抱えていたことを言葉に残しておこうと思った。言葉にすれば何かが変わるかもしれない。

 

半年以上前、ある上司が話していたことが印象に残っている。

彼は高校時代、野球部だったが、1度も打席に立つことなく、現役生活を終えたそうだ。打席に立てるよう毎日練習したが、自分よりはるかに上手い、立教大学野球部でレギュラーを獲るようなチームメイトを前に努力しても叶わなかったそうだ。

そんな彼は仕事をしてから、「野球部と違って、この仕事は若手でも失敗しても、毎回打席に立たせてくれて、なんて恵まれてるんだ」と思ったそうだ。

 

日々仕事に追われて苦しい時期だったが、この話を聞いて、少し仕事の見方が変わった。